これはとある社会の片隅で紡がれた物語。
隣で鳴り響くマンション工事の音に引き裂かれるようにして、岩田の目が覚める。都会の冷たく厳しい騒音の中で、彼の一日が幕を開ける。素早くシャワーを浴びて身支度を整え、手際よくインスタントコーヒーを淹れる。一服の電子煙草を吸い終えた彼は、アパートを出て駅へと足を急がせる。彼を待っているのは、他の無数のサラリーマンと同じ、満員電車での揺らぐ通勤の時間だ。
駅に着くと、日々繰り返される小さな闘いが始まる。人々が波のように集まり、改札を通過していく。朝のピーク時には、駅が活気に満ち溢れる一方で、息が詰まるほどの混雑を迎える。ざわめきと足音が背景に鳴り響き、案内放送が流れる中、岩田は混沌を抜けて前進する。電光掲示板で次の電車の時刻を確認しながらホームに急ぐが、そこは既に人であふれている。
各ホームでは人々は電車が到着する度に、一斉に前へと進もうとする。まるで形を失った砂粒が川の流れに取り込まれるかのような感覚だ。岩田は、この日常の光景に慣れてはいるものの、ひとりひとりが自分のスペースを確保しようとする姿に、時に息苦しさを感じる。満員電車に乗り込む瞬間、彼はただの一人の人間ではなく、大都市の機構の中のひとつの歯車に過ぎないように思えてくる。岩田は自分が個としてのアイデンティティを失い、数えきれない群衆の一員になるのを実感する。この日も、彼は都市のリズムに身を委ね一日の始まりに埋没していく。
通勤電車が都市の脈動にように進む中で、大小さまざまなビルが窓外に広がる。乗客たちは、身体に重い疲労を抱え、心は仕事のプレッシャーや時に感じる会社の人間関係の冷たさによってさらに重荷を負っているように見える。彼らの疲れ切った無言の表情は、都会生活が個々人に課す孤独の重さを静かに物語っている。
座っている乗客たちは皆、スマートフォンの画面に集中していた。一様にうつむき加減で、機械的に指を滑らせてはスクロールを繰り返している。彼らのこの均質な動きは、個性を失いつつある社会のメタファーのように思える。立っている人々も、目的地に着くまでの間、どこか無意識な有機物のように揺れに耐えながら立ち続けている。
岩田は電車内の無言の乗客たちを見て、都市生活が個々人に押し付ける孤独と寂しさを感じ取る。彼の心の奥底にある寂しさが、それらの表情と重なり合い、共鳴するように感じた。そして周りの人々の中にも自分と同じように感じている人もいるのではないかと想像した。
彼が感じた孤独と寂しさは、朝日が差し込む通勤電車の窓から見える景色とも結びつき、その感覚をさらに際立たせている。時折見える空の向こうには、遠い故郷が続いてる。懐かしい思いが心を満たし、少年時代の明るい記憶や、若き日の未来への憧れが心をかすめる。彼が田舎で夢見た都会生活、訪れるはずのチャンス、手にするはずだった成功は、今や遠い幻に変わってしまい、目の前には変えがたい現実が存在している。触れることのできない過去の幸せや叶わぬ夢のカケラが日常の中で突然蘇り、彼の心を孤独へと誘っていく。
彼にとってのいつもの通勤電車は単なる移動時間以上のものになっており、自身にとっての内省と回顧、そして現実との対峙の時間となっていた。そうして都市の喧騒の中で感じた孤独と虚しさの感情は彼を静かに揺さぶり続けるのだった。
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何度かの転職を経て、岩田はある中堅のIT企業に身を置いている。朝、会社に着くや否や、彼は挨拶もなく自分のデスクに直行する。そこから始まる一日は、絶え間なく降りかかるPC作業に加えて顧客対応や細かい雑務の山との格闘だ。彼のデスクは、ある種、孤独な砦のようでありながらも、外の世界と繋がる唯一の窓口となっている。岩田が他の社員と交わす言葉はほとんどなく、たまに業務に関する必要最低限の会話をするぐらいで、デスクに向かう彼の姿は、周囲の灰色が支配するオフィス空間に静かに溶け込み、彼の存在そのものが風景の一部と化してしまうようだ。このどこか不自然も感じさせる社内の希薄な人間関係の背後には数ヶ月前に起きたある一件の出来事が理由になっている。
岩田は当時、自身の部下である若手社員の才能と将来に大きな期待を寄せ、その育成に力を入れていた。彼に自分の若い日の姿を重ね、黙々と支援を続けてきたのだ。その若手社員は確かに実力をつけ、社内での存在感を増していった。しかし、ある社内会議での言動が、会社の古株であり、いわゆる「お局」と呼ばれる女性との間に深い亀裂を生じさせた。
このお局は、約1年前に就任した2代目社長と過去に特別な関係があったとされる人物で、その関係性を背景に2代目社長に何かと口添えを行っており、特に社長の交代以降はその発言力を強め、時にはプロジェクトの決裁を左右するなど、社内での影響力は、ますます歪な形で増していった。
問題はある会議で起きた。議題は、お局の対応により発生したクライアントへの不手際と、その後のフォローアップについてだった。プライドが高く、自らの過ちを認めることを極端に嫌う彼女は、自己防衛のために自分を正当化するような発言を重ねた。しかし、その若手社員は、問題の核心を的確に指摘し、結果として他の社員の前でお局は面目を失う形となった。
この出来事がきっかけで、お局はその若手社員に対する態度を一変させた。お局は若手社員の提案をことごとく否定し、彼の業務を妨げるかのような行動を取り始めた。岩田はこの不条理な状況を看過できず、無実の若手社員を支援し、時にはお局に直言することで彼を守ろうとした。しかし、その試みは逆効果に終わり、今度はお局の矛先が岩田自身にも向けられることになり、事態はさらに複雑化した。
岩田が介入したことで、事務所の空気は一層重くなり、対立は深まる一方であった。お局の姿勢は更に硬直し、岩田と若手社員に対する圧力は日増しに強まっていった。最も皮肉なのは、岩田が守り抜こうとした若手社員が、結局会社を離れる決断を下したことだった。彼が去った事に憤りを感じていた岩田は信じる正義のために、お局が有望な若手を排斥したことを責め、つい感情的になり論破するような正論をぶつけてしまった。その正直さが、岩田を社内でさらに孤立させる結果となり、他の社員たちは面倒ごとに巻き込まれることを避けるかのように岩田と距離を置き、必要最低限の会話以外は避けるようになっていった。社内のコミュニケーションは形骸化し、岩田の日々は深い虚無感に包まれていった。
岩田は、心を痛めながらも、悔しさを胸の奥深くに秘め、それらに屈することなく過ごそうと決意した。お局への屈服を拒むことで、自分自身のプライドや価値観を守り自分の選択や行動を否定したくないと思っていた。そんな考えから外面では冷静さを保ち、心を無にして仕事に没頭することで、この厳しい状況を乗り越えようと、彼は日々奮闘を続けていた。しかし、最近のお局の振る舞いは日に日に悪質さを増し、最近では岩田のすぐ後ろで静かに立ち、他の社員に目配せを送りながらにやりと笑うようになった。その意地悪い笑みは、岩田がかつて抱いた希望や情熱を、消し去るには十分だった。
入社時に抱いていた気持ちは、今や遠い過去の記憶となり、彼の心は現実を受け入れることを余儀なくされた。若き日の成功への夢や目標は、今では手の届かない遥かな星のように感じられ、その輝きは完全に失われつつあった。
そうして、現在の岩田の日常は、歪に形骸化した人間関係の中での終わりなき業務に埋め尽くされている。この環境の中で、彼は自己との対話を失い、内なる声に耳を傾けることさえも忘れた。仕事もただの義務へと変わり、彼の心は徐々に摩耗していく。お局からの嫌がらせや、同僚たちの変貌、そして情熱の喪失は、岩田にとって日々の現実の一部となってしまった。
そんな中で、仕事の終わりは彼にとって微かな解放の瞬間を意味していた。いつものように終業時刻を少し過ぎてから、岩田は重い足を引きずるように会社を後にした。僅かな解放感を噛み締めながらも、現実へと引き戻されるよう帰宅ラッシュに身を委ねる。駅構内は相変わらず人で溢れ、彼はその人波に押し流されるように電車に乗り込んだ。満員の車内で、疲れた身体を少しでも楽にしようと微調整を繰り返す。岩田はただの帰宅する群衆の一員となり、周りの風景の一部に溶け込んでいった。
最寄り駅に到着するころには夜は更に深まっている、岩田の孤独もまた深くなるように。狭いアパートへの帰路は、足取りが重く感じられる。部屋に入ると、迎えるのは静寂だけで、その静けさが彼の内面の孤独と共鳴する。夕食は近所のスーパーで買った弁当、ほとんど味わうことなく機械的に済まされ、その後はテレビやスマートフォンの画面の光に照らされて過ぎていく。だが、その光は彼の心の奥にある寂しさや虚無感を照らすだけで、温もりを与えることはない。
テレビの笑い声やドラマの台詞、SNSで流れてくる他人の楽しそうな風景は、彼にとっては触れられない遠い世界の話。画面越しに見る世界は幻影のようで、時間が経つにつれ彼には虚しさを感じさせていく。この繰り返しの中で、岩田は夜ごとに深まる孤独と明日への仕事の憂鬱と対峙し続けるのだった。
深夜、部屋を照らしていた唯一の光源、ディスプレイが消えると、岩田は一人、ベッドに静かに横たわる。布団をかぶっても心の奥底に潜む冷えは温まらず、眠りにつくまでの間、彼はただ天井を見上げて終わりなき思索にふける。しかし、その思考はいつも結論に達せず、意識は徐々に断片化していった。明け方に目覚めたとき、新たな一日が始まっている。だが、岩田を待ち受けているのは、昨日や今日と変わらない日常の繰り返しであった。彼の生活は、誰の目にも留まることなく、都会の冷たく無機質な鼓動の中で静かにリピートされる。せめて睡眠中だけでも、美しい夢に身を委ね、現実の孤独や虚しさから逃れたいと彼は願っていた。たとえ目覚めたときにはすべてを忘れてしまうとしても。
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外は徐々に明るくなり、マンションの工事音が聞こえてきた。岩田は新たな一日へと立ち上がった。しかし、彼の心に刻まれた孤独や憂鬱は、繰り返される日々の中で、都会の喧騒に混じりながら今日もまた、ひそやかにその深みを増していくのだった。