幸せな結末 空想小説

【幸せな結末】2.失われていくもの。

岩田の日々は、世界を席巻したある新型ウイルスの流行により、予想もしない方向へと大きく変わった。かつては、会社のデスクに埋没する代わり映えのない日々を過ごしていた。しかし、そのウイルスに冒されて以来、彼の日常は静かな病室での休養へと一変した。この意に反した休息は、彼にとって、繰り返しの毎日の中で見失いがちだった自分自身と向き合うための十分な時間をもたらした。この病気による強制的な静けさの中で、隠れがちだった彼の内面がはっきりと浮かび上がってきたのである。

 

病室での新しい生活の中では、白い壁と時折響く医療機器の音が彼の日常の風景となった。病床で長い1日の時間、仕事とはいえ献身的な姿勢で尽くしてくれる看護師たちから受ける優しさは、岩田にとって久しぶりに感じる心温まるものだった。彼のベッドを整え、薬を手渡し、時には励ましの言葉をかけてくれる。これらすべてが、長い間彼の日常から欠けていた温かい人間関係の接点だった。そんな無償のケアを受ける中で、人恋しい気持ちが徐々に彼の心を満たし始める。彼女たちの一挙手一投足が岩田にとって深い慰めとなり、人とのやさしい繋がり、それがどれほど自分の中で大切なものであったかを、改めて思い出させてくれたのだ。

【挿絵】

しかし、この特別な時間が岩田にもたらした温もりとは対照的に、会社とのやりとりは冷たく、現実の厳しさを改めて突きつけられる。義務感に満ちた見舞いの言葉が形式的に交わされた後は、お局からは今回の休職による他社員への迷惑や岩田の自己管理不足が原因であることを揶揄するような言葉が添えられた。

復帰するまでの期間の業務の引き継ぎ調整が済むと、会社からの連絡はぱったりと途絶えた。そうした中で、彼の療養生活は自宅での静養へと移行していった。

 

岩田が自宅で静養を始めて以来、彼の生活は独りの時間で溢れ、次第に深まる孤独感に包まれていった。この孤立感は日々重くのしかかり、一人で自宅に籠ることの難しさを彼に痛感させた。外界との繋がりを切望し、孤独からの解放を求める彼の心は、救いを求めてもがき始める。

 

この抗えない孤独の中で、岩田はマッチングアプリへと希望を託す。
温かな人との交流や新たなパートナーとのつながりを求めていた彼だったが、アプリ上での反応は予想以上に冷たく、彼の試みはすぐに挫折に遭遇する。40歳を迎えようとする年齢、彼の社会的立場や年収が障壁になっているのか、あるいは外見が原因なのか、マッチングアプリでの成功が困難であるという厳しい現実に彼は直面した。

【挿絵】

岩田は、彼なりに自己の立ち位置を客観的に捉え、現実に即した視点でパートナー探しに励んでいた。外見や若さを追求することなく、自分と同じくらいの年代、あるいはそれよりも年上の女性を対象にアプローチを続けていたが、受ける無関心は彼の自尊心に深い傷を残した。岩田としては相手に対して高望みもせず、現実的な条件はで探していた認識にも関わらず、ほとんど誰にも相手されない状況に直面するとは思いもよらなかった。

 

アプリに接する時間が経つにつれ、岩田は自分と同年代のある種の女性たちに対して苛立ちも感じるようになった。様々なプロフィールを見ていく中で、まるで女王のような評価目線で年収や年齢、外見など高い理想条件を提示している女性も散見していた。CGのように加工を施した顔写真を掲載し自称20代に見られるというアラフォー。同世代男性をオヤジと見下し10歳近く年下の男性を希望する者。恥ずかしげもなく、誤った自己認識のまま他者への要求を突き付けている。

彼は自己評価と現実との間にある乖離に気づいていない同世代の女性が多いと感じた。しかし、そういったプロフィールにも関わらず一定数以上の「いいね」を集めている女性たちがいる事実と、一方では誰からも相手にされない自身の現実との対峙を余儀なくされるものであり、男性としての市場価値の低さに憤り、内面の葛藤を深めることになった。

 

マッチングアプリを通じた出会いの探求は、表面上は容易に見えたものの、岩田はその裏にある厳しい現実を痛感することになった。アプリを介した一時的な期待と、それに続く現実との落差。人々の浅い関心や、コミュニケーションが上手くいかない経験は、彼に新たな失望感と挫折感を抱かせた。

【挿絵】

岩田の日常は、さらに試練を迎えることになった。会社にも復帰してしばらくしたある日、急な小雨が街を静かに濡らしている中、傘もささずに歩いていた彼は、頭頂部に冷たい雨粒が触れるのを感じた。この感触は、ただの雨ではなく、彼にとって何かを暗示するような特別なものだった。その瞬間、岩田は自分の外見に変化が起きていることに気づき、避けてきた現実と向き合う決意を固めた。

 

アパートに戻り、迷うことなく洗面台の前に立った岩田は、手鏡を使い合わせ鏡で自身の頭頂部を確認した。鏡に映ったのは、進行する薄毛の厳しい現実で、この発見は、岩田に新たな自己認識と、それに伴う感情の葛藤をもたらした。

時の流れと共に避けられない変化を受け入れるしかない状況に置かれていたのだ。

鏡に映る薄毛の現実は、岩田にとって単なる身体の変化を超えたものだった。それは彼の人生の脆さ、若さと魅力の儚さ、そして取り戻すことのできない時間の流れの象徴として立ちはだかる。お局が彼の背後で嘲笑う理由も、恐らくはこの変化にあったのだろう。

 

この外見の変化を通じて、岩田は自己の存在がいかに時間の経過とともに変わり得るかを痛感し、若さは失われてゆくことでその価値を一層際立たせることを再認識した。かつての自信と活力が影を潜める中で、彼は時間の流れという避けられない現実に直面し、以前は当然視していたものの価値を見直し始める。

 

マッチングアプリでの失敗と、薄毛という厳しい現実と向き合う中で、岩田の心は深い迷いに満たされた。人生の意味や目的に対する疑問が彼を虚無感に追いやり、自己の存在そのものを根本から問い直すような危機に直面した。

 

この心情の変化は職場での日々にも影響を及ぼし、オフィス内で彼の存在感は今まで以上に周囲から浮いたものとして際立つようになっていった。以前には気にも留めなかった他人の視線が気になり始め、会話の中で自分が対象になっているのではないかと疑心暗鬼になることが増えた。

 

お局からの冷遇を跳ね返す心の鎧も脆くなった。かつては嫌がらせのような無意味な指摘に対して毅然とした返答で受け流していたが、半ば思考が停止したかのような状態で、つい「すいません」と返答してしまった。今までの岩田の態度からするとこれはお局に対する屈服と見なされ、彼女は岩田の変化に一瞬驚くも、すぐに満足そうな表情を見せた。この変化は岩田にとって、自分の中で何かが崩れ去る感覚を伴い、オフィスの空気が変わったと感じさせた。

 

そうして、職場での立場が微妙に変化していき、岩田は自身の心と身体の変わりゆく中で、今まで以上に社会から取り残されているような孤立感に苛まれた。それは彼の心をさらに重くし、日常生活への興味や情熱を奪っていった。この無気力は彼の人生にますます深い影を落とし、周囲の世界を一層灰色に染め上げた。

 

岩田は、日々の生活が孤独と虚無に包まれる中で、心の奥にひっそりと温もりを保つ記憶を思い出していた。それは約10年前に付き合ってい美咲と思い出だ。4年間の交際後に別れたものの、美咲以降新たなパートナーは現れず、彼女との時間は失われた宝物のように彼にとって価値があった。美咲は岩田の心を深く理解し、彼も心を開いた数少ない存在だった。二人が共有した時間は、現在の彼にとって遠いが美しい夢のようで、その記憶は彼の心に深く刻まれている。美咲との日々は、現在の孤独や虚無とは対照的に、互いの慰めと支えの温かさに満ちていた。

 

しかし、美しい過去への逃避が実は自身にとって二重の苦しみをもたらしていることを深く理解していた。心の奥底では、これが単なる現実逃避であると自覚している。過去の美しい思い出に浸ることで得られる一時的な安らぎは、彼を現実から遠ざけ、手に入れられない願望に心を馳せさせる。現実世界に戻るたびに、彼はより深い孤独感と虚無感に襲われる。過去への執着がもたらす一時的な慰めは、現実のギャップを際立たせ、彼の苦しみを一層深めている。

 

毎日が変わらず、会社と自宅の往復に限られた彼の生活は色を失っている。朝、家を出て満員電車に揺られ、会社では冷遇されながら仕事をこなし、夜は誰もいない室内で孤独に包まれ眠りにつく。この繰り返しの日々が、今の岩田にとってどれほど虚しいか、その虚しさが彼をじわじわと蝕む。

 

しかし、ある夜、その繰り返される日常に予期せぬ変化が訪れる。最寄り駅のホームで人混みを縫うように歩いていた時、岩田の目の前に突如現れた一人の女性の姿に、彼は心を奪われる。彼女のシルエットは控えめながらも、プラットフォームの僅かな灯りに照らされた時、幽かに輝き、その儚さが岩田の心を深く打つ。

その姿は、かつて彼が愛した女性、美咲を強く思い起こさせ、岩田の日常に一瞬の輝きをもたらした。

彼女が美咲であるかどうかは分からない。しかし、その一瞬の光景は、遠い過去の記憶を呼び覚まし、岩田の単調な日常に一筋の光を投げかけた。彼の心は、久しぶりに何かに動かされ、その儚くも美しい存在によって、一瞬だけ現実の重さから解放された。

【挿絵】

突然、岩田の心の中で何かが変わった瞬間が訪れた。彼は、見かけた女性の後を追うべきかどうか内心で葛藤しながらも、胸の奥から湧き上がる期待感に抗えず、足を踏み出した。この決断は彼自身にとっても予想外のことで、内心ではその動機に驚きながらも、胸の奥から湧き上がる強い期待感に駆り立てられていた。

⇒次回へ続く

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