曖昧な約束を胸に秘め、再会の日がやってきた時、岩田はいつもよりわずかに早く、その約束の場所であるバーへと足を運んだ。マスターと軽い会話を交わしつつ、彼は待ち続けた。しかし、期待していた美咲の姿はどこにも現れず、彼女がいつものようにそこに現れるだろうという希望が、じわりと心の中で砕け散った。その時、彼は初めて美咲に連絡を取ることを決意する。手にした電話から彼女の番号を選び、深く息を吸い込んだ後、画面をタップする。心は緊張と期待でぎゅっと締め付けられながら、彼は彼女の声を待った。
しばらく呼び出し音がなったあと美咲からの応答は岩田の想像とは少し違っていた。彼女の困惑した声は、悲しみさえ感じさせ、その声には何か深い悩みを抱えているような切なさが込められていた。会話の中で美咲が岩田を自宅に招く提案をした時、それは岩田にとって予想外の嬉しい驚きであったが、同時にいつもの場所での約束が果たされなかったことの小さな悲しみと不安を引き起こした。
美咲から伝えられた住所へ向かう岩田の足取りは重かったが、彼の心は喜びと期待、そして不安で複雑に入り組んでいた。美咲がバーに現れなかった理由についての不安が、彼の思考を占めていた。彼は、美咲とのこれからを想像しつつ、二人の関係が新たな段階に入ることへの期待と不安で心は揺れ動いていた。
岩田が美咲の住むマンションの前に立った時、深夜の街の静けさが彼を包み込む。一歩一歩、彼は彼女の部屋のドアに近づき、わずかに震えた手でその扉をノックする。この瞬間、二人の関係は新たな局面を迎えようとしており、岩田はその変化を受け入れる準備をしていた。しばらくしてドアが開いた瞬間、彼の目の前には長い間待ち焦がれた美咲の姿が現れた。彼女は切なく微笑み、彼を温かく迎え入れた。二人の間には、これまでの再会とは全く異なる、新たな約束のような空気が流れていた。
言葉は交わされなかったが、二人は互いに抱き合い、その抱擁が全てを語っていた。美咲は岩田に向かって静かに語りかけた。「もう二度と離れない」彼女の声に深い決意が込められていて、岩田はその言葉に深く心を打たれた。彼は、美咲の言葉を信じ、二人の間に流れる強い絆を確信した。
その夜、二人は言葉では表現しきれないほどの深い愛情を、身体を通じて確かめ合った。外の世界から完全に切り離された、二人だけの特別な空間の中で、彼らの関係は新たな深みを得ていった。美咲の部屋の灯りの下、外界のざわめきから隔絶された静寂の中で、岩田と美咲の間には、これまでにない強く、純粋な愛情が芽生えていた。
この夜は、岩田にとっても美咲にとっても、忘れられない時間となった。二人の関係は、言葉を超えた絆で深く結ばれ、互いの存在がお互いの人生にとって欠かせないものとなっていく。彼らの愛は、静かな部屋で交わされた誓いと、深い繋がりの中で、さらに強固なものへと変わり始めていた。
美咲の部屋での静寂が、岩田に心を開放する場を提供した。彼はこれまで感じたことのないほどの透明感と深さを胸に、二人の未来について語り始める。時折声に震えが交じりつつも、彼の言葉一つ一つには堅固な決意が感じられた。「これからの人生、ずっと一緒に過ごしたい」彼の言葉が部屋に静かに響き渡った瞬間、二人の間に新たな約束が生まれた。
岩田の言葉は美咲の心に深く響き、彼女は言葉ではなく、彼をさらに強く抱きしめることで応えた。その行為は、彼女の中にも同じ願いがあることを示していた。言葉を超えた絆で結ばれた二人は、共に歩む未来を誓った。
その夜、二人は幸せな未来を夢見ながら、優しく眠りについた。外の世界の喧騒から離れ、美咲の部屋での静けさと共に、お互いへの深い信頼と愛情に満ち溢れていた。この特別な夜は、二人にとって新しい人生の幕開けを告げるものとなり、彼らの未来は、この夜交わされた約束と深い愛情によって築かれていくのだった。
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岩田が発見されたのは、暗く静寂に包まれた解体予定のマンションの一室だった。この場所は、岩田が美咲と最後に約束を交わした場所、あるいは彼が美咲の自宅だと信じていた場所だった。腐敗が進んだ彼の遺体は、まるで周囲から忘れ去られたかのように、2週間以上もの間、誰からも見つけられることなくそこに横たわっていた。捜索願が出されていなかった事実は、彼の生前の孤独がいかに深かったかを物語っていた。
彼が生前示していた無気力さは、彼が長期にわたって会社に現れなくなっても、周囲の人々が心配することがなかった原因となった。彼の不在は、無断欠勤として受け取られ、誰もが彼はそのまま会社を辞めて、どこかへ飛んだのだろうと思い込んでいた。岩田には親しい友人もおらず、故郷の家族とも日頃から連絡を取っていなかったため、彼の不在を心配する者はいなかった。
解体作業が始まる直前、工事業者が不快な臭いに導かれてその部屋を見つけ出した。ドアを開けた瞬間、彼らは信じられない光景に直面した。このマンションで、岩田の孤独な最後が静かに幕を閉じていたのだ。
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薄暗い部屋の中で、どこか怠惰な印象を受ける中年女性が、ぼんやりとテレビとスマートフォンの画面を行き来していた。テレビで流れるニュースでは、解体前のマンションで孤独な死を遂げた一人の男性、岩田の話題が取り上げられている。この女性はかつて岩田と関係があった美咲だ。テレビで報じられている男の末路が、かつての恋人であるとは想像もしていない。
岩田と別れから10年以上の時を経ているが、美咲は彼と一切の接点を持たずに生きてきた。テレビから聞こえた「岩田」という名前には少しだけ反応したものの、似た名前の人物は多い。彼女の記憶の片隅で2週間前に岩田からの着信があったことをふと思い出すが、その確証を得るために電話をかけ直すことはなかった。
ニュースが終わり次の番組に切り替わると、美咲はテレビに対する興味を完全に失った。再び手元のスマートフォンに視線を移してマッチングアプリに没頭する。美咲の日々は、かつての恋愛や岩田との記憶から大きくかけ離れた場所で続いている。彼女は過去を振り返ることなく、マッチングアプリで出会えると信じる理想のパートナーとの未来を期待して、現在という時間を消費しているただの一人の中年女性であった。
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岩田が経験した美咲との再会と、その後に深まった絆は、彼自身が生み出した心の産物だったのかもしれない。しかし、それが真実であれ幻であれ、彼にとってはかけがえのない、幸せな時間だった。
彼は社会の片隅でひっそりと生き、繰り返しの日常の中で悩み苦しんで、人生の分岐点に立たされた時、その抜き差しならない生活から這い出すように最後の輝きを模索していたのかもしれない。
誰にも気づかれず、現実と幻想が絡み合う中で、彼自身が描き出した美しい夢と現実はひっそりと終わりを告げたのだった。